夢を形に!植松みつお

政治、経済、教育、医療、メディア、等々の中から、話題を取り上げ、問題提議して参ります。あたなと共に「幸福の実現」を目指して参ります。

スポンサーサイト

--.--.-- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【教育問題を考える】 いじめを放置し、回避しておきながら、親に咎められたら、不眠症で逆ギレ提訴!こんな教諭は要らない!即刻、クビにせよ!

2011.01.18 (Tue)
女性教諭、児童の両親提訴…抗議連続で不眠症

【同志諸君!「呆れてものが言えない」とはこのことだ。教師としての資質が問われる案件である。】
 この女性教諭は、図らずも学級問題を通して、教育者として児童への指導力の無さを露呈した。また、両親への対応でも、説得能力に欠け、自らの調整能力の無さを棚に上げて、挙句の果ては、「不眠症」になったと言って裁判所に被害者面して告訴する始末。40歳も超えたベテランの教師という立場からしては、全くもって「お粗末」であり、言語道断、教師として教壇に立つことは慮れる存在だろう。

 まず、「教師は聖職である」という認識がこの教員にはないと感じる。子弟らには、教師として凛とした態度、その言動でもって、或いは後ろ姿で持って物事の善悪をしっかりと教え、やっていいことと悪いことを示さなければならないと思う。では、こうした指導力無き教師は、教師だけの責任かというとそうでもない。と言うのは、この教員が教職に就いたのは91年だった。実は、この年から文科省(当時文部省)がこうした指導力が落ちるきっかけを作ったのだ。91年の全日本中学校長会、全国高等学校長、各県の教育委員会宛に「生徒指導のあり方に対して校則の見直しと思い切った見直しの必要」と通達したのだ。内容は「規律の緩和、正当の飛行、校内生活の乱れで授業が成り立たなくなる危惧はあるが、頭髪や服装等は家庭の問題なので、学校で指導しなくてもいいのではないか」と通知し、それよりも「生徒の自主性、主体性を重んじよ」と強調したのだ。このような理念の下で教育を受けた子供達は、規範意識を失い、規律を乱し、いじめ=弱肉強食のような獣の世界を増大させたのだという。


(参考;『いじめ栄えて国亡ぶ』加藤十八著)

 こうした学校現場が動物園化した理由は、旧文部省の指導要領にあったわけだが、そもそもが学校現場には学校自治の名の下に、政府や警察などの外部の権力を教育現場に入れさせない雰囲気を作っていた。その元凶の一つが「旧教育基本法」にあった。それも左傾化した教師らが中心となって「学校に権力を介入させない」とやってきたからだ。更に、性質が悪い指導がなされている。文科省は、2007年「いじめ問題に関する取組事例集」の中で、「子供はみんないい子です。カウンセリング・マインドで接すれば、いじめはなくなります」と出したことだ。
 これは仏教の世界でもやった文明実験だった。仏陀の教えである「一切衆生悉有仏性」(全ての人には仏性がある)は正しいが、最澄が説いた「一切衆生悉皆成仏」(全ての人は仏になる)では、人は努力しなくなる。その結果、悟りは得られず、堕落が待つのみであった。そこで、何が修行(努力)がないと悟れないでしょう?と鎌倉仏教の宗祖たちが修行論を展開させたのだ。この辺りは、大川隆法著『悟りの挑戦(下)』が詳しい。



 つまり、「教師の下にみんな平等(みんないい子)だ」と言って、善人ぶりながら、子供を庇いながら、子供を動物化させていく結末となった文科省指導。これはまるで、悪魔の手法だった。若いときにこの毒牙に掛かった者は、将来はない。すべてが迷いの人生となる。学校では許された自由が外部では通用しないことを悟るのに、刑務所通いか暴力団関係者への道を余儀なくされるからだ。ここで言えば女児にイタズラをした児童をゼロトレランス(無慈悲)に叱ることだった。厳しく「人の嫌がることはしてはならない」としっかりと云うことが大事だった。こんなことは人間として基本中の基本だろう。それを「生徒の自主性を重んじる」とやれば、結果、いじめや嫌がらせを増大させる結果となる。例え、相手の児童が気に食わなかっとしても、そうだからといって雑巾で顔を殴ったり、拭いていい理由にはならない。そんなことは常識中の常識だ。それを指導できずに、単なる「席替え」という問題からの逃避で誤魔化したことが最初にして最大の失策だったのだ。

 更に、個人相互の問題をクラス全体で話し合わせたこと自体が二番目の失策だ。問題をすり替えたことだ。安易に、自分の指導能力の無さ、調整能力の無さを隠して、クラスの責任に持っていったことだ。それが女児からの連絡帳に表れている。今回の件では、クラス全体で女児一人へのいじめ行動という悲惨な事件にまで至っていないのだから、クラス全体に反省を促すような問題ではないのだ。偏に、この教員のキャパの無さ、認識力の不足が引き起こした問題であり、ここでこういう手を打ては次はどうなるという原因・結果で物事をとらえられない洞察力の無さと「個と全体」の把握ができないことが問題なのだ。

 一般的に、こういう「存在の悪」のような人は、同僚から「KY」と云われているだろうことは大凡推測がつく。

 また、最近の教員を見るにつけ、情けないと思うのだが、公務員として、「公僕」としての認識がないことだ。「公共の奉仕者」、「公共の福祉」のために自らが存在し、その貴い役割を果たしているという認識が欠落しているのだ。だいたい、日教組などという組織に所属し、組合活動のために生涯を奉仕した民主党の某議員などもそうだ。子どもらに最高の教育の場を施したいのではなく、自分らの生活のために、子どもらを利用しているのだ。子どもらを自分の感情のはけ口にしたり、奉仕させている教員、子どもらを出世のために利用している教員、PTAとの遊びに心躍らせている教員。いくらでもいる。まさに、サラリーマンの延長で仕事をやってきていることの証明だ。こんな教員は、教師ではない。もう二度と教壇に立ってはならないのだ。

 裁判所は、公務員としての立場をわきまえ、自分ら公務員の仲間を裁くことにいささか罪の意識を感じるかもしれないが、サラリーマンと化した公務員などに情けは要らない。しっかりとした「お裁き」をするべきだ。本来の「三権分立」の前提を踏まえ、「門前払い」として訴えを却下させるべきだろう。


クリックお願いします

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 広島(市)情報へにほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へ



関連記事
スポンサーサイト

コメント

私は、サラリーマンです。
私は、31年間、技術系サラリーマンをしています、
教員だからこそ、こう云った事件が起きるわけで、
ハッキリ云って、サラリーマンより、公務員の質のほうが劣るのが
この国の特徴だと思いますが?

比喩、例え、として引き合いに出したのだとは思いますが、
「サラリーマンの延長で仕事をやってきている」ではなく、
公務員はサラリーマン(一般企業)から学ぶべきであると思われます。
いずれにせよ、ユルユルの公務員体質は是正されるべきでしょう。

最後にサラリーマンの名誉にかけて云わせて頂くと
我々、一般企業のサラリーマンは顧客、すなわち国民の利便性を
願い製品開発をし、世に、製品を送り出し、いかに貢献できるかを
考え、仕事をしております。
モンスターティーチャー
僭越ながら、この女性教諭に「モンスターティーチャー」と言う言葉を贈ります。

もう、公務員の風上にも置けません。


管理者のみに表示

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。